むかしむかし、ある町のはずれの古い家に、庄司さんという人が一人で住んでいました。庭には、萩が茂っていました。秋になると、小さな赤紫の花が、塀の内側いっぱいに咲きました。
月のきれいな晩には、庭のほうから、ぽんぽこぽんと腹鼓が……聞こえるのではなく、電話が鳴りました。庄司さんの家の電話番号は、四十年変わっていなかったからです。その番号は、どこかの名簿に「高齢・資産あり・一人暮らし」と載っていました。
庄司さんは長いあいだ刑事弁護をしていて、接見で、台本を読まされていた若い人に、何人も会ってきました。
萩の手入れは、毎年、秋の終わりに、よその町から来るおじいさんに頼んでいました。おじいさんは、白い犬を連れてきます。犬は帰る前に、いつも庭の同じところを、前足で少し掘っていくそうです。
その晩も、月がきれいでした。電話は、庭に面した廊下の台の上にありました。庄司さんは湯のみを電話台の端に置いて、受話器を取りました。若い男の声がしました。
「しょ、しょ、少々お時間よろしいでしょうか」
庄司さんは、最初の一言で分かりました。
男は、区役所の保険年金課の田中と名乗りました。医療費の還付金があり、手続きの期限は本日中だそうです。
「ほう」
「還付金が、ございまして」
「それは困った」
庄司さんは、困っていませんでした。
「念のため確認ですが、その還付金の根拠になる条文は」
電話の向こうで、紙をめくる音がしました。音はしばらく続き、止まって、また続きました。
「上の者に確認して、折り返します」
電話は切れました。折り返しは、ありませんでした。
翌朝、町のどこかの、借りたマンションの一室で、朝礼が開かれました。長机に、ヘッドセットを付けた若者が三人並んでいました。長机の真ん中にはスマートフォンが一台置いてあり、そこから本部長の声がしました。アイコンは、信楽焼の狸の置物でした。顔は、誰も見たことがありません。
台本は、二穴のファイルが一冊でした。表紙には「還付金」とあり、一行目には「しょ、しょ、少々お時間よろしいでしょうか」とありました。台本の一行目は、最初から、そう印刷されていました。
ゆうべの電話をかけたのは、七番でした。ここでは、名前ではなく番号で呼ばれていました。七番は、この部屋の中では、いちばん新しい番号でした。八番から十一番は、もう来ていませんでした。
「条文を聞かれました」
「どの条文だ」
「それを、聞かれました」
本部長は、台本に一枚足すように言いました。表題は「条文を聞かれた場合」でした。七番は、それをファイルのいちばん後ろに綴じました。
ホワイトボードのノルマ表には、「庄司」の行がありました。成果の欄は、〇でした。

庄司さんの電話機の横には、名刺ほどの大きさの AI レコーダーが置いてありました。その晩の要約は、こうでした。
「要約:区役所の職員を名乗る男性から、医療費の還付の案内。期限は本日中。矛盾点:三件。」
文字起こしのほうには、「(紙をめくる音)」が十一回出てきました。
庄司さんは、要約をそのまま、警察の相談窓口にメールで送りました。返信は、すぐに来ました。
「情報提供として、承りました」

翌日の昼、相談窓口の人から電話がかかってきました。庄司さんは一度切って、代表番号にかけ直しました。同じ人が出ました。
「電話は、すぐに切っていただいて構いません」
「切ると、次の方におかけになりますので」
相談窓口の人は、少し黙りました。
「……おすすめは、しません」
その晩も、月が出ると、電話が鳴りました。









