むかしむかし、ある町のはずれに、文具と園芸用品を作る会社がありました。創業ははさみで、本社の受付には、創業のころの大きな裁ちばさみが一本、今も飾ってあります。
その会社に、おじいさんとおばあさんが勤めていました。
おじいさんは総務課で、社員研修の宿の手配を長く受け持っていました。宿ごとの料金や研修室の広さを一枚の比較表にまとめ、毎年少しずつ直していました。机の上の規程集は付箋だらけで、閉じても少し開いていました。定年までは、あと四年でした。
おばあさんは専務でした。創業者の娘で、毎朝いちばんに出社して、受付のはさみの埃を自分で払いました。来客があると、玄関まで自分で見送りに出ました。
おじいさんは、一羽の雀を飼って……はいませんでした。総務課には、鈴目さんというアルバイトがいました。鈴目と書いて、すずめと読みます。おじいさんは、その鈴目さんを可愛がっていました。
鈴目さんは学生で、アルバイトは二年目でした。よくしゃべり、電話に出ると声が明るいので、総務課に電話をかけてきた人は、用が済んでもなかなか切りませんでした。宿に空室を問い合わせると、ついでに近くの桜の咲き具合まで聞いてきました。
鈴目さんは、おじいさんの比較表づくりを手伝いました。料金、研修室、送迎、Wi-Fi。その右端に、自分で一列足しました。
「ごはん、ですか」
「研修で覚えているのは、だいたい、ごはんです」
「規定には、ありませんが」
「規定で、禁止もされていません」
おじいさんは、その列を消しませんでした。
取引先からお歳暮が届くと、おじいさんは規程集を開いて、贈答の申告のページを鈴目さんに見せました。
「三千円までは、受け取ってよいことになっています」
「それより高いものは」
「お返しします」
「三千円ちょうどは」
「受け取って、その日のうちに申告します」
鈴目さんは、それを比較表の裏にメモしました。

総務課の戸棚には、熨斗のかかった最中の箱が、いつも入っていました。ふたには「来客用」と書いた付箋が貼ってありました。駅前の和菓子屋の最中で、おばあさんが自分で選んだものでした。お客さまには、いちばん良いものをお出ししたいのだそうです。夕方になると、おばあさんがときどき総務課に来て、その戸棚を開けていきました。
ある日の午後、来客の予定がありました。鬼ヶ島の IT 業者でした。打ち合わせは、前の晩の午前三時に、オンラインに変わっていました。
戸棚の最中は、賞味期限がその日まででした。鈴目さんは箱を開けて、少し考えてから、一つだけ食べました。それから付箋を、元のところに貼り直しました。
その日の夕方、おばあさんが総務課に来て、戸棚を開けました。箱のふたを持ち上げたまま、しばらく黙っていました。
「来客用の最中が、一つ足りません」
総務課の全員が、顔を上げました。
「来客用は、会社の顔ですから」
鈴目さんは、自分の席で立ち上がりました。
「わたしです。来客は、オンラインに……」
おばあさんは、最後まで聞きませんでした。
「二度と、口を挟まないでちょうだい」
総務課は、しんとしました。課長は、ペンを持ったまま動きませんでした。おばあさんは、最中の箱を抱えて、総務課を出ていきました。
その日、おじいさんは研修の宿の下見で、山の向こうに出かけていました。
おじいさんは翌朝、課長から話を聞きました。黙って聞き終えると、手帳に日付を一つ書きました。
翌週、鈴目さんはアルバイトを辞めました。退職の連絡は、メールが一通でした。件名は「お世話になりました」で、本文も、それだけでした。
入館証を返しに、一度だけ総務課に来ました。おじいさんは席を立って、カウンターまで出ていきました。手には、駅前の和菓子屋の小さな紙袋を持っていました。戸棚の最中と同じ店の、同じ最中が一つ入っていました。
「来客用ですか」
「私用です」

鈴目さんは紙袋を受け取り、入館証をカウンターに置いて、頭を下げました。何か言いかけて、言わずに帰っていきました。
おじいさんは、最中のレシートを、自分の財布にしまいました。
その年、研修の宿は変わりませんでした。比較表は毎年新しくなりましたが、右端の「ごはん」の列は、それから三年、空いたままでした。








