翌朝、目が覚めると、浦島の親指はまず画面を探しました。浦島は、ひげを剃るより先に、箱を開けることにしました。
開けなくても大丈夫だと、乙姫は言いました。けれども浦島は、開けていないものを手元に置いておくのが、どうにも落ち着かない性分でした。網はその日のうちにほどき、届いた荷物はその日のうちに開けてきました。メールだけは、この三年、別でした。
竜宮城のアプリは、閉じてもまだスマホの中にありました。アイコンでは、乙姫の小さな顔がこちらを見ていました。アイコンの右上には、赤い丸に「99+」と出ていました。ひと晩のうちに、鯛はもう新しい振り付けを出していました。その隣で、漆の箱の絵が、赤い紐を結んだまま光っていました。
浦島は、箱に触れました。赤い紐がほどけて、ふたが開き、乙姫の声がしました。
「おかえりなさい。この三年間の、ご利用時間のお知らせです」
箱の中には、数字が並んでいました。
ご利用時間、合計 二万六千時間。ご覧になった動画、三十八万本。いいね、四十一万回。「ただいま」、二千百九十回。いちばん長くご覧になったのは、ヒラメでした。
乙姫は、いつもと同じ声で読み上げました。
「一日平均、
およそ二十四時間でした」
浦島は、その数字をしばらく眺めていました。箱からは、煙は出ませんでした。ただ、洗面所の鏡を見ると、浦島の髪とひげは、真っ白になっていました。浦島は、白いひげだけを剃りました。髪は、そのままにしました。
お知らせのいちばん下には、乙姫からひとこと添えてありました。
「またいつでも、おかえりなさい」
昼前、きのうの漁師が家の前を通りかかりました。縁側の浦島を見て、漁師は足を止めました。
「浦島さんの、おじいさんですか」
「浦島です」
「……きのうは、黒かったですよね」
「三年分の、利用時間のお知らせを見たもので」
「なんだか、よくわかりませんが、辛いことがあったら相談してくださいね」
漁師は会釈をして、港のほうへ歩いていきました。

白髪の浦島は、縁側に座ったまま、メールを開きました。未読は、ひと晩でまた増えて、三万と二十六件でした。
画面のいちばん上に「すべて既読にする」とありました。指一本で済むことでした。浦島は、指をのせかけて、やめました。
かわりに、古い順に並べ替えました。三年分の画面が、一度にさかのぼりました。
いちばん古い一通は、三年前のあの夜、峠の向こうの母から届いたものでした。本文は、一行だけでした。
「元気ならいい」
次の週も、その次の週も、母からは短いメールが届いていました。毎週日曜の夜の、同じ時刻でした。「雨です」「わかめをもらいました」「台風、そっちはどう」「膝はもう大丈夫」「桜が咲きました」。季節が三回めぐり、いちばん新しい一通は、また「元気ならいい」でした。
母からのメールは、三年で百五十六通ありました。どれにも、返事はついていませんでした。
浦島は、百五十六通を、古い順に一通ずつ開きました。どれも一行か二行で、全部読むのに十五分もかかりませんでした。開くたびに、未読は一つずつ減りました。百五十六通目を開いたとき、未読は二万九千八百七十件になっていました。
それから浦島は、竜宮城のアプリを消すことにしました。アイコンに指をのせたところで、浦島の口は、あと一本、と動きかけました。声は出ませんでした。浦島は、そのまま長く押しました。乙姫の小さな顔が、少し揺れました。「削除」を押すと、揺れは止まりました。
縁側には、昼の日が差していました。浦島は、いちばん古い一通にだけ、返事を書きました。三年分のことを書こうとすると、どこから書けばいいのか分かりませんでした。書いては消し、消しては書いて、送ったのは昼過ぎでした。何と書いたのかは、母しか知りません。
母からの返事は、四分後に届きました。四分というのは、峠の向こうで母が老眼鏡を探して、かけるまでの時間でした。
「おかえり」

浦島の親指は、それからもときどき、ひとりでに画面を上へなでました。そこにはもう、何も流れてきませんでした。
夕方、浜辺の亀が、いつもの時刻に、いつもの浜辺の写真を投稿しました。写真には、いつもの岩と、いつもの波が写っていました。浦島は、いいねを一つ押しました。
いいねより、返事を。


