三年と三月がたった夏、ふもとは日照り……ではなく、寝不足でした。毎年のことです。
用水路には、水がたっぷり流れていました。ただ、夏の田んぼは、夜も水の深さを見ておかなければなりません。
夜の十一時、父は懐中電灯を持って立ち上がりました。
「水、見てくる」
二時にも、立ち上がりました。
「水、見てくる」
四時にも、立ち上がりました。
「水、見てくる」
あぜ道には、懐中電灯の光がいくつも行き来していました。近所の家も、同じ時刻に水を見に出ていました。夜中にすれちがうと、あいさつをしました。
「こんばんは」
「おはようございます」
「……どちらでしょうね」
水は、いつも、だいたいちょうどよかったそうです。
変わったのは、その夏から、寝不足に点数が付くようになったことでした。
その春、町役場の健康づくり係が「ぐっすりふもと宣言」を出していました。宣言の最後の行には、「町民の平均睡眠スコア七十を目指します(令和八年度)」とありました。
夏の初めに、全戸に、腕時計の形をした睡眠トラッカーが配られました。父の手首にも、母の手首にも付きました。
そして、毎朝六時に、防災無線が鳴るようになりました。
「おはようございます。昨夜の町の平均睡眠スコアは、四十二でした」
放送は、こう続きました。
「今夜も、よく眠りましょう」
四時に田んぼから戻って横になった父は、六時に起きました。町じゅうの窓に、一斉に明かりがつきました。

放送の原稿を書いているのは、健康づくり係の人でした。係の人は毎晩、夜中の一時まで役場に残って、「睡眠だより」を作っていました。係の人のスコアは、二十九でした。
農協の組合長は、集荷場の隣にサウナを建てました。名前は「ととのい小屋」です。組合長は毎晩、夕飯のあとに小屋で汗を流し、水風呂に入り、外のベンチで夜風に当たりました。それから、首のタオルを頭に巻き直して、懐中電灯を持ちました。
「ととのいました。水、見てきます」

母は、スマートフォンに睡眠アプリを入れました。寝る前に、川のせせらぎの音を流すのです。その晩、二時と四時のあいだに、父がもう一度起き上がりました。
「水の音がする」
父は懐中電灯を持って、田んぼへ出ていきました。その晩の見回りは、四回でした。
組合長は、眠れない夜には、スマートフォンで山奥の宴会の配信を見ていました。夜通し開かれている宴会でした。鬼の輪の中で、知らないおじいさんが踊っていました。組合長は、見ているうちに四時になったので、水を見に行きました。
母は、配られたトラッカーを、寝太郎の手首にも付けました。寝太郎も、町民だからです。同意書の「データの提供に同意します」には、本人の代わりに、母が丸を付けました。
寝太郎は、今日も寝ていました。睡眠スコアは、百でした。
役場のアプリには、町内のランキングが出ました。一位は、毎週、寝太郎でした。母はその晩、親戚のグループ LINE に「本日も就寝中です(スコア百)」と送りました。おじさんの返信は、夜中の二時に来ました。
「うちは、三十八です」
ある日、健康づくり係の人が、目の下にくまをつくって、取材に来ました。クリップボードには、寝太郎の前の会社の採用ページを印刷したものが挟んでありました。玄関に出たのは、母でした。
「採用ページでは、三時間で足りる方だと」
「足りない分は、つけでした」
係の人は少し黙ってから、ペンを持ち直しました。
「よく眠るコツを、教えてください」
「三年、寝ないことです」
「……メモしても、よろしいですか」
係の人は、二階のほうへ小さく頭を下げて、帰っていきました。起こしは、しませんでした。
寝太郎のスマートフォンは、枕もとで、一度も光りませんでした。
寝太郎の部屋の窓は、あぜ道に面していました。









