鈴目さんが辞めて、三年がたちました。おじいさんの定年は、来年の春になっていました。
その秋、会社が長年使ってきた研修の宿が、建て替えで休館することになりました。研修の宿を、選び直さなければなりません。
おじいさんは、すずめのお宿を探しに山を越えて……は行きませんでした。すずめのお宿の方から、営業に来たからです。
鈴目さんは、三年前に入館証を置いたカウンターに、名刺を置きました。「すずめのお宿 女将 鈴目」とありました。おじいさんも名刺を出しました。おじいさんの名刺には、「総務課」とだけありました。
鈴目さんは辞めたあと、旅館で仲居をして、後継ぎのいなかった郊外の古い宿を継いだのだそうです。営業の話は、春になると宿の近くに咲く桜の話から始まりました。
「お取引は、相見積もりで決めます」
「存じております。総務におりましたので」
翌週、おじいさんは下見に行きました。
すずめのお宿は、郊外の駅からバスで二十分の、坂の上にありました。古い宴会場は研修室になっていて、畳の上に長机が並び、Wi-Fi は引き直してありました。おじいさんは比較表を出して、料金、研修室、送迎、Wi-Fi の欄を、一つずつ確かめました。
夕食の前に、鈴目さんが献立を聞きに来ました。
「お好みは、ございますか」
「研修のときと、同じ献立でお願いします」
「研修の方には、お酒はお出ししておりません」
「では、お酒も同じで」
献立は、鈴目さんが一品ずつ説明しました。説明は、最後の柚子のゼリーまで十五分かかりました。研修の方にも同じ説明をするのか聞くと、「いたします」とのことでした。おじいさんは、それを比較表の余白に書き足しました。
夕食のあと、仲居さんたちが、懇親会プランのすずめ踊りを一曲だけ見せました。おじいさんは手帳を開いて、所要時間を書き留めました。七分でした。
宿泊費は、会社の出張費で払いました。領収書は、宛名を会社にしてもらいました。

翌朝、おじいさんが帰ろうとすると、鈴目さんが玄関の上がり框に、つづらを二つ並べました。大きいのと、小さいのでした。
「当館では、お帰りの際に、どなたにもお出ししております」
鈴目さんは、二つのつづらの前で頭を下げました。
「お好きな方を、どうぞ」
おじいさんは、規程集の付箋のページを思い出しました。
「規定で、三千円までです」
「中身は、お選びいただいてから、ご覧ください」
「では、小さい方を」
鈴目さんは何も言わずに、小さいつづらを風呂敷に包みました。大きいつづらは、上がり框に残りました。おじいさんがバス停までの坂を下りきるまで、女将は玄関に立っていました。
おじいさんは、つづらを家に持ち帰らず、そのまま会社へ行きました。机の上で風呂敷をほどき、ふたを開けると、宿の名を染めた手ぬぐいが一本と、印刷の挨拶状が一枚入っていました。挨拶状には「今後とも、よしなに」とありました。手ぬぐいの隅には、白い羽根のロゴが小さく入っていました。
宿のサイトで売店のページを開くと、同じ手ぬぐいが九百八十円でした。
おじいさんは、その日のうちに申告書を書きました。品名、手ぬぐい一本。金額、九百八十円。先方との関係の欄は、たいていの人が空けたまま出すところでしたが、おじいさんは「先方の女将は、当社の元アルバイト」と書きました。
「課長。手ぬぐい一本、申告します」
申告書は、二通書きました。一通は総務課の申告の箱に入れて、贈答品台帳に写しました。もう一通は封筒に入れて、昼休みに持って出ました。

見積もりは、その前から三社に頼んでありました。すずめのお宿と、駅前のビジネスホテルと、山の上の研修センターです。三社の見積もりは、その週のうちにそろいました。料金と研修室と送迎で比べると、すずめのお宿がいちばんでした。課長は比較表に判を押しました。
比較表の右端の「ごはん」の列に、おじいさんは三年ぶりに書き込みました。すずめのお宿の欄に、「良」と一字だけでした。
おじいさんは、選定の理由書に、申告書のコピーを添えて、稟議を回しました。研修の宿の契約を決めるのは、専務でした。その日の夕方、稟議は、専務の机に届きました。








