稟議に目を通すと、おばあさんは秘書を呼びました。
「専務として、ご挨拶を」
「決裁の前に、ですか」
「会社の顔ですから」
取引先には、決裁の前に一度、自分で顔を出す。先代のころからの、おばあさんの決まりでした。手土産は、駅前の和菓子屋の最中でした。
翌週の昼過ぎ、社用車が、すずめのお宿の坂を上りました。日帰りでした。
玄関では、鈴目さんが、おじいさんのときと同じように手をついて迎えました。おばあさんは、鈴目さんの顔を見ても、何も思い出しませんでした。会社には、三年のあいだに、アルバイトが何人も入って、何人も辞めていました。鈴目さんも、名乗りませんでした。
鈴目さんが、献立を聞きに来ました。
「お好みは、ございますか」
「いちばん良いものを」
「お酒は」
「いただきます」
おばあさんは、特別室に通されました。水菓子の柿は、山向こうの蟹の庭から届いたものだそうです。仲居さんたちは、懇親会プランのすずめ踊りを、全曲見せました。四十分でした。おばあさんは、どの皿もきれいに食べ、仲居さんの一人ひとりに、ていねいに礼を言いました。

食事が済むと、おばあさんは鈴目さんを呼びました。お茶うけのまんじゅうの菓子鉢を少し持ち上げて、底を見せました。
「先代のころは、こういうものでした」
それから、少し声を落としました。
「今どきは、足のつかないものがよろしいそうで」
「孫が、ビットコインと申しておりました」
鈴目さんは菓子鉢を見て、それから、何も言わずに頭を下げました。
帰りに玄関へ出ると、上がり框に、大きいのと小さいのと、つづらが二つ並んでいました。
「当館では、お帰りの際に、どなたにもお出ししております。お好きな方を、どうぞ」
秘書が、小さな声で言いました。
「専務、規定では……」
「口を挟まないでちょうだい」
秘書は、黙りました。
「小さい方では、先方に失礼でしょう」
大きいつづらは、社用車のトランクに入りきらず、後部座席に載せました。おばあさんは、その横に座りました。鈴目さんと仲居さんたちが玄関に並んで見送り、おばあさんは、窓越しに会釈を返しました。
社用車がとうに坂を下りた、その晩のことです。鈴目さんは帳場で、名刺を一枚出しました。「総務課」とだけある名刺でした。電話をかけて、その日のことを順に話しました。電話の向こうのおじいさんは、家で夕飯を済ませたところでした。最後まで、口を挟まずに聞きました。
「何か、いたしましょうか」
「そのままで、結構です」
電話を切ると、おじいさんは手帳を開いて、日付と時刻を書きました。
おばあさんは、家の座敷で、大きいつづらを開けました。
大きいつづらから出てきたのは、お化け……ではありませんでした。一面の、まんじゅうでした。
まんじゅうの上には、挨拶状が一枚のっていました。「今後とも、よしなに」。おじいさんの小さいつづらに入っていたのと、同じ文面でした。まんじゅうを出して底板を持ち上げると、紙が一枚ありました。ビットコインを受け取るためのコードを刷った紙でした。
まんじゅうは、孫の分を取り分けて、残りを近所に配りました。

翌朝、おばあさんは、すずめのお宿の稟議に、決裁印をまっすぐ押しました。
数日後の役員会で、議題が済んでお茶が出たとき、おばあさんは言いました。
「良い宿でした。大きいつづらまでいただいて」
「申告は、されましたか」
「専務は、会社の顔ですから」
社外監査役は、手帳に何か書き留めました。社長は、何も言いませんでした。
お化けは、三週間後に出てきました。社内調査という名前でした。
調査は、社長の名前で、外の弁護士に任されました。弁護士は、総務課に資料を求めました。宿の選定の書類と、念のため、会議費の記録でした。おじいさんは、頼まれたものを、頼まれたとおりに出しました。会議費の領収書の綴りは十年分あって、年ごとに付箋がついていました。
その中に、駅前の和菓子屋の領収書が、百二十枚ありました。但し書きは、どれも「来客用」でした。








