閉店後、かぐや姫は、翁と媼に話があると言いました。
「月の会社に、転職します」
「月」
「入社日は、次の満月です」
「ずいぶん、遠いね」
翁がそう言うあいだに、媼は帳簿を開き、かぐや姫の給与の欄を指でたどりました。数字は、三か月目から同じでした。その一つ上の行には、新人の初任給がありました。
翁は、その二行をしばらく見ていました。
「気づいていなかった」
翁は、それだけ言いました。本当に、気づいていなかったのです。かぐや姫が来てから、翁は店のことで困った覚えが一度もありませんでした。困る前に、かぐや姫が片付けていたからです。
かぐや姫は、何も付け足しませんでした。数字は、媼の帳簿に全部書いてありました。
満月の夜、翁は店の戸を閉めて、竹で作った閂を三本差しました。前の晩に、自分で削ったものでした。それから、かぐや姫をカウンターの奥に座らせ、一枚の紙を差し出しました。媼が一晩かけて、新人の初任給から一つずつ足していった紙でした。
「給与を、上げる。新人より上に。行列の分も、足す」
紙には、新しい給与の額が書いてありました。年にすると、かぐや姫が転職サイトに書いた希望年収と、一円も違いませんでした。
かぐや姫は、紙をよく読みました。
「ありがとうございます。計算も、合っています」
「では」
「でも、もう決めました」
翁は、紙をたたんで、エプロンのポケットにしまいました。それから、戸の閂の一本を、小刀で少しだけ削り直しました。媼は、新しい帳簿を一冊おろしました。
真夜中ちょうど、戸の閂が三本とも、ひとりでに外れました。いちばん先に外れたのは、翁が削り直した一本でした。竹林の小道には、月の会社の迎えが並んでいました。全員が、同じ紺色のパーカーを着ていました。胸には、小さく月のロゴがありました。
案内役は、背の高い青鬼でした。フードには、角を通す穴が二つあいていました。穴は、ほかの社員のものより少し大きめに切ってありました。
「お迎えにあがりました。わたしも、転職組です」
青鬼は、新しいパーカーを一着、両手で差し出しました。
「着ると、月の会社の人になります」
「着る前に、一つだけ」
「どのくらい、かかりますか」
「明け方までには」
迎えの社員たちは、縁側で待つことになりました。青鬼は、竹筒のドリンクを一本頼みました。

かぐや姫は、カウンターでノートパソコンを開き、新人への引き継ぎ書を書きました。仕込みの順番。竹筒は、節を一つ残して切ること。抹茶の値上げのお知らせは、三回書き直すこと。閉店後には、竹林の写真を一枚投稿すること。
書き上げたのは、明け方の少し前でした。かぐや姫は、見送りに残っていた新人に、それを渡しました。
「見ている人は、
ちゃんといます」
新人は、それもメモに取りました。引き継ぎ書には、書いてなかったからです。
かぐや姫は、着ていたエプロンをたたんで、竹のエプロン掛けの、新人のエプロンの隣に掛けました。それから、パーカーを着ました。着ると、かぐや姫は、月の会社の人になりました。翁が手を振ると、かぐや姫も手を振りました。給与の話は、もうしませんでした。
かぐや姫が月へ行った朝、帝は、辞退のメールをもう一度開きました。読むのは、三回目でした。
「かぐや姫が担当しないなら、意味がない」
帝は、本社のいちばん天に近い部屋で、放置竹林の事業計画書をシュレッダーにかけました。最上階の明かりは、今も夜遅くまでついているそうです。
翌年の春、翁は、新卒の初任給だけでなく、全員の給与を上げました。媼が、帳簿にそう書きました。
新人は、二年目になりました。三か月では一人前になりませんでしたが、一年で一人前になりました。それが普通でした。春には、新卒がもう一人入ってきました。求人票は、新人が作りました。
一年後の満月の夜、新人は閉店後に一人で翌日の仕込みを済ませ、竹林の写真を一枚、店のアカウントに投稿しました。
最初のいいねは、かぐや姫からでした。

竹林の上には、満月が出ていました。
輝ける場所は、選んでいい。


